この有能振りに触れた久隆は勝法師丸の助命嘆願を願い出ましたが、小早川隆景は「有能さ故に生かして置けばいつかは毛利家に刃を向けられる」と考え井山の谷で殺害を命じました。 この頃の伊賀久隆は「領土を守るには攻め込む事を潔しとせず」と公言しており、また「度々衝突した毛利氏に与する事を潔しとせず」とも言い、また「梟漢 きゅうかん: 宇喜多の政治手法に賛同するのも潔しとせず」とも言って、致し方なく独立を模索していました。 一手は毛利元清 (元就の4男 が率い伊賀久隆の南方領土の諸城を落とし岡山城の宇喜多直家の動きを封じました。 永禄11年 1568年 7月5日 等松田氏の親戚や重臣が数多集まった時 松田氏は久隆に城門の守護を命じました。 勝ちに勢い付いた備前軍 (宇喜多方)は 薬師丸与五郎等の護る龍の口の二の丸と三の丸に攻め掛けました。 伊賀久隆はこの毛利方の動きに対処するため備中との境の近くのを固め、 等が鼓田城に籠らせると互いに睨み合いとなりました。
次のこの働きで伊賀久隆は15万石に加増され宇喜多勢の最大勢力になり、筆頭家老待遇となりました。 毛利軍の数が自軍の2倍に達する事を知ると、伊賀久隆は民も兵も虎倉に退いて、引き付けるだけ引き付け敵軍が密集した処で決戦する作戦を指示しました。 その途中 勝法師丸は扇を取り出し「夢の世に 幻の身の生まれ来て 露に宿るか宵のいかづち」とススッスラと書いたのです。 盗賊共の逃げ足は速く退治できないでいましたが、ある夜「必ずや仕留めん」と心に決め、田土村の夜警に務めていると阿部源吾が現れたので仁熊勘兵衛はその左脇を弓で射ると、が斬り込んで行きました。 備中毛利勢は虎倉城に迫り、尾崎に構え、斥侯が虎倉勢の様子を探りに来てみると、尾崎の木陰に虎倉方が険しい山の林の中に300人余りが潜んでおりました。 」とびっくりした様子でまじまじと石を見つめる息子。
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その後、元親の子のは山手と清音の境都窪郡の城主 (元親の妹の婿)と一緒に松山城からへ落ち延びようとしましたが、伊賀左衛門尉久隆に捕えられ井尻野の毛利本陣のに届けられました。 毛利方軍6万が総攻撃の態勢を取ると、羽柴秀吉は京都に逃げ出し 織田信長に会い 作戦を仰ぎました。 備中勢で真っ先に進んだのは中島世兵衛 小寺右衛門 井上源左衛門 児玉與七郎でしたが、哀れにも討たれたり深手を負い、 は手負い、雑兵は780人許 ばかり が討ち死にしました。 この時 毛利軍は三木城に主戦力を移すべきでしたが、 (宇喜多直家は、弟のや伊賀久隆を参加させていました。 この戦いの最中に阿波のからの浪人 兄弟の率いる鉄砲隊は地の利に疎い毛利方の多数の武将を仕留めました。 勝山には 毛利家譜代の重臣 (岌円) 岡宗左衛門尉元良 が在番しました (桂岌円覚書)。
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初戦の大勝利に気を良くしながら平岡を通り過ぎようとしていた時、さしもの河原も深い霧に阻まれ道を失いました。 夏場のハイシーズンにやってくるとブルーベリーなどがちょうど 盛りで、ヨーグルトで食べたくなるので、実需ということもありますが、一番の理由はリスや野鳥です。 織田信長は退路を確保する事を優先し 三木城を守る別所長治を討ち、上月城を放棄するよう命令した。 森本基嗣氏の「岡山の山城を歩く」 によれば、天正7年毛利氏の吉川元 春が対岸の篠向城(ささぶき)を攻め 落とし、宮山城に逃げ込んだ宇喜田 勢を、3月3日の節句の酒宴の最中 に攻め滅ぼしたとか。 「」 田土辺りは伊賀氏 「」の勢力範囲でしたが、時に毛利氏の影響力が及んだ地でした。
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城将は堪らず城外からの攻撃を依頼すると、8月9日に備中の 古和田城の野山宮内少輔益朝 川上郡穴田郷 (高梁市穴田 の等が夜の暗がりを利して みかいさん の沢田の道筋から奇襲を仕掛け横倉に衝き掛かると、備前兵は驚き敗走しました。 最近の子どもたちの遊ぶものってどうしてもデジタル系が増えてしまい、古風な私にはなかなかついていけません。 要請を受けたの の の禰屋輝秀が7月12日に馳せ参じました。 元賢とその親の松田元輝が居城する金川城を乗っ取ろう」と話を持ちかけました。 今年はどんな作品を持ち帰ってくるだろう と、私 達もいつも楽しみにしていました。 ブナやミズナラなどの広葉樹でドングリのなるものを植えるようにしています。 それでも毛利方軍が兵糧攻めを仕掛け 水源を断ち 兵糧道も断たつと尼子方軍に脱走兵が出始め、中山幸盛等の叱咤激励の効果もなく自滅しかけました。
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多勢に無勢、西備前一の堅城でありましたが、僅か2日で落城しました。 当然ながら、伊賀方勢の鉄砲玉に当たりあっさりと戦死しました。 この知らせを聞いた羽柴秀吉 ()は攻撃中の内の兵一万七千人をに向かわせました。 天正9年 (1581年)4月に伊賀久隆が謎の頓死を遂げた際も桂元盛ら三名が第一報を毛利輝元へ伝えています (萩藩閥閲録遺漏)。 河原六郎右衛門に「持て成し用事をするので、常光寺城に来るよう」伝え、に接待させました。 しかしながら信長が軍の一部を引くと、浦上氏に敗れ降伏するのですがなぜか言い逃れに成功し助命されました。
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羽柴秀吉軍は直ぐ近くにいましたが、高倉山の三木城で防戦一方の戦いを強いられており、上月城に援軍を送れませんでした。 城に火を放ち城外へ逃走する計画でしたが、その隙に城に兵糧を運び入れる事に成功たので 火を放つことを免れました。 3月3日に登 城すると、将兵の亡霊に苦しめられ ると伝えられている。 家親は永禄9年 (1566年)に再び美作国に侵攻すると宇喜多直家配下の鉄砲の名手 ・兄弟に狙撃され命を落としました。 うちの子が通っていた学 童に はだいたい3~4人の学童専門の先生がいて、 ハンドメイドが得 意な人、スポーツ全 般が得 意 な人、お料理上手だったりとそれぞれの先生達 の持ち味を活かした活 動をしていました。 7月6日、駆けつけた宇喜多直家の配下の者も伊賀久隆軍に合流し本丸を朝晩攻め立てました。 次いで三村氏は美作国のを永禄8年 (1565年)攻めましたが、勝元の義理の父である宇喜多直家の加勢があり撤退させられました。
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その後、和睦が成立し、領内 (竹庄、田土)の生産物は、藤沢城と虎倉城で半分ずつ分け合う事が合意されました。 戦いが進むうち織田方を裏切り毛利方に付いた三木城が主戦場になり上月城の重要性はなくなっていきました。 この強引さに両者とも領内に異論者を抱える事になり、共に領内は不安定になりました。 ナナカマドが青いうちは寄りつかず、寒くなって 赤く熟するとたくさんの小鳥がやってきます。 伊賀久隆は大いに怒り、主と主に「直ちに退治せよ」と命じました。 尾崎の地名はこの付近に無いので、伊賀端( ・野山nosan)の意味にも採れます。
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