チベット 旅行 記。 西蔵旅行記

[チベット旅行]スケジュールと旅行記ブログまとめ 蘭州〜西寧〜ラサ〜成都 2週間の鉄道の旅

チベット 旅行 記

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるの知遇を得る。 護衛平氏の腕力• で、その俗語を習う月謝はもちろん私が払いますので、その上私はダージリンに在る官立学校へ通ってチベット語の教頭ツーミ・ウォンデンという人から正式のチベット語を学ぶことにしました。 法王宮殿の下に着す• 風邪をひかない? 就いてはあのお経を私の頭に載せて下さい」といいますからその通りにしてそこで誓いを立てさせました。 必要原稿帖(手紙控等)• 世人呼んで世界の秘密国と言う。 もし私が雪山の 垢塗 ( あかまみ )れの土人と一つになるようなことがあったならば、私は今時分はかのヒマラヤの 谷間 ( たにあい )の 黒坊主 ( くろぼうず )となって居ったかも知れぬ。 道はあらかじめわかりましたが何も口実なしにその道を通って行くと決めますと、どうもこいつは怪しい男であるという疑いをブッダ・バッザラ師に起される 虞 ( おそれ )があります。 しかしそんな事をしてそこに居ても仕方がない、まだ大分の時間もあるものですからもう少し西北の方に向って進んで行こうという考えで、だんだんとその池の縁を伝ってまた下へ指して降ったです。

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[ チベット旅行記 ]

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描かれている内容は、チベットの歴史や密教の神々、マンダラなどがメインなのですが、途中ふと見ると妙に親近感の湧くものが下の方に小さく描かれていました。 慧海の『チベット旅行記』は、講談社学術文庫の5巻本をはじめ、これまで何種類かの形で刊行されてきた。 第三の都会を過ぐ• ・ヒマラヤ越え(その一)• なお、慧海のチベット行をめぐる時代背景、そして同時代にチベットを目指した日本人たちについて、さらに興味をもたれた方には『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』(新宿書房)もお勧めだ。 しこうして男女間の情交を説くのに仏と 多羅尼 ( タラニ )、あるいは 独鈷 ( どくこ )と 蓮華 ( れんげ )との関係をもってし、またその蓮華の露の働きを男女の関係に及ぼしていろいろの説明をし、そうしてそのごく 穢 ( けがら )わしい関係からして清浄 無垢 ( むく )の悟りを開かしむるというような所に落し込んであるのです。 あたかも 毘廬沙那大仏 ( びるしゃなだいぶつ )の虚空に 蟠 ( わだかま )って居るがごとき雪峰にてその四方に聳えて居る群峰は、菩薩のごとき姿を現わして居ります。 第七九回 僧侶の目的• それでもチョモランマ・ベ-スキャンプからの風景は言葉に言い尽くせない程に素晴らしく、シェ-カルからベースキャンプまでの風景も一生思い出に残る印象深いものでした。

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河口慧海 チベット旅行記

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五重の関門• 『西蔵探険 : 大秘密国』1903年• 昼頃起き、ヤクホテルの近くの食堂で中華料理とビールを楽しみ、ビールを買って帰ってヤクホテルの中にはで飲んで、みんなとしゃべってとダラダラ生活を過ごしました。 第六二回 遥に拉薩を望む• その途中のチュミク・ギャーツァ(百の泉という意味)すなわちサンスクリット語にいわゆるムクテナートと言って居る霊跡に参詣致しました。 チベット宗教の将来• それがちょうど月が西原に沈んだ後の事でござりました。 出発準備• まあこの方向が一番よさそうなという道筋を山の絶頂からよく望んで置きまして、それから荷物をやっとこさと背負って息杖を頼りにその雪の中を進んで行ったです。 それで私はなるほど世間というものは妙なものだ。 - ネパールの国立公文書館に慧海が寄贈したものと思われる和装の仏書275点が保管されていることが確認される。 そこで私は 直 ( すぐ )に着物を脱いで山に少しく上りて大いなる石を一つ馬の居る側に 擲 ( な )げつけましたが、馬は自分を打たるると思ってかびくびくして居りました。

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『チベット旅行記(下)』(河口 慧海):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

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この仏堂にはチベット語の 一切蔵経 ( いっさいぞうきょう )及び他の論部等も安置してあり立派な仏陀も沢山あります。 そうすると日に十二時間あるいは十五時間位勉強する。 その峰を超えてその夜はマルクーという駅に宿りまして、翌二月一日早朝チャンドラ・ギリーすなわち月の峰に上りまたヒマラヤ山脈の妙光を見まして少しく下ると、山間におけるネパール国の首府カトマンズ付近の全面が見えます。 この間大分に面白い景色の所もあるからぶらぶら話しつつ歩いて行ったならばよほど愉快であろうと思うがそうしたらどうでしょう」とこういう話。 その停車場から向うへ二日行けばネパールの国境に着くのですがそれから先は英語も通用しなければチベット語も通用しない。 ・チベットの宗教(その四)• 香港を経由し、神戸港に到着。

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殊にそのお婆さんは大変に酒好きですから宿場に着くと荷持は申すに及ばずそのお婆さんにも同じように買って 遣 ( や )ります。 とにかく 身体 ( からだ )が非常に疲れて居るからまずその辺で一休みとこう思うたけれども雪ばかりでどうもよい所がない。 ともかくどうにか 極 ( きま )りを付けなければならんと言ってその荷物を卸してそれからまあそこへゆっくり坐り込んだ、というのは私は例の理論上で極められぬ事があるといつも 断事観三昧 ( だんじかんさんまい )に入って事をきめるのであります。 人間のからだは、いったん高所に行くとその時の状態を覚えているらしく、次回行った時の負担は減るそうです。 これ実に私の取るべき間道であるとあらかじめ決定致しました。 清国とチベット• 『河口慧海日記-ヒマラヤ・チベットの旅』編、講談社学術文庫、2007年 著作集 [ ]• この尊者は実に尊いお方で既にインドの方にも仏教を拡めたいという意見を持って居られたそうです。 「あなたの使って居るシナ語はそりゃ北京語だ。

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その辺は一面の積雪で埋って居りますから……で都合のよい石のあるような所を見付けてそこの雪を払ってまずそこに荷物を卸し、ヤレヤレとそこでまず一息して南の方を眺めますとドーラギリーの高雪峰が雲際高く虚空に聳えて居る。 「はてな地震じゃあないか知らん。 厳重な警備の目をくぐり抜け、チベット第二の都市シカチェからラサへの道中。 あなたの言うのはこういう風に間違って居るとか、どういう風に間違って居るとか、何遍か言う。 チベットの人もたくさん被害にあったと思います。 されど、余にも耳目の明ありて専門の宗教上以外、社会学上に、経済学上に、あるいは人類に無上の教訓を与うる歴史の上において、その幼稚なる工芸中別に一真理を 包摂 ( ほうせつ )する点において、地理上の新探検について、動植物の分布について等その見聞せるところも 尠 ( すく )なからざりしかば、帰朝以来、これら白面の観察を収集して、 梓 ( し )に 上 ( のぼ )さんと欲せしこと、一日に非ざりしも、南船北馬暖席に 暇 ( いとま )なく、かつ二雪霜の間に集積せるところは、 尨然 ( ぼうぜん ) 紛雑 ( ふんざつ )し容易に整頓すべからずして、自ら 慚愧 ( ざんき )せざるを得ざるものあり。

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チベット旅行記(1) (講談社学術文庫)

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六、七、八月と三月は通り得られるそうですがもう九月に入って一度雪が降れば 塞 ( ふさ )がってしまうそうです。 しかし私は 釈尊 ( しゃくそん )の教えを堅く信じこれを守らなければ自分の生命は無きものであるとまで確信して居りますから一向取り合いませぬ。 知って居る話ばかり聞いてくれればよいけれどもそうでないと 化 ( ばけ )の皮が顕われますからあまりむこうから尋ね掛けないように機先を制して、かねてシャブズン師から聞いて居った 機密 ( きみつ )の話を持ち掛けた。 この辺の土地はツァーランよりはよほど低いので物が二季に取れます。 その時の哀れな有様を聞いて私は思わず落涙致しました。 8世紀、ティソンデツェン王の時代に仏教が国教化。 ガイドさんたちは、なんとかラサに戻り、ホテルまでたどり着いたそうです。

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『チベット(1) 西寧~青蔵鉄道~ラサ』チベット自治区(中国)の旅行記・ブログ by nao520さん【フォートラベル】

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シナの経文の中にチベットにはマパム・ユムツォすなわち阿耨達池があって、その岸に 聳 ( そび )えて居る山を蔵語でカン・リンボチェといって居るが、私はその山に参詣したいという 願心 ( がんしん )が起ったからどんな難儀をしても ちょっと ( 〔ぜひ〕 )行ってみたいと思うがどうでしょう。 雪中旅行• ちょっと湖まで距離があったのですが、その大きさは十分に伝わりました。 秘密露顕の端緒• ところが稀薄なる空気に打たれたのかあるいは他の原因か非常に疲れましたから翌一日逗留して十五日に出立しました。 その日の午後三時頃二疋の馬に経文その他の荷物を負わせ、自分は一疋の馬に乗り一人の村人に案内されて村 端 ( はず )れまで参りますと、私に 按手礼 ( あんしゅれい )を受けんがために礼拝して列んで居る人が百名余りありました。 「私はとにかくチベット語を学ばなくちゃあなりませずその上にただチベット仏教の学問だけ研究してもつまりませんから、どうか俗語をも学びたい。 (明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたは)へ向かう。 ここまで来たら、ぜひがんばって登ってみてください。

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